南アフリカで初の黒人大統領マンデラ

南アフリカで初めての人種差別法と言われる1911年施工された「鉱山・労働法」。この法律施工に対し、1912年現与党ANC(アフリカ民族会議)の前身となる南アフリカ原住民民族会議が結成され、人種主義反対ののろしを上げ、当時の政府は1913年には「原住民土地法」と言われる同国人口の約70%と言われる黒人を「原住民指定地」という国土のわずか7%という居住地に押し込め、更に土地購入や賃借あるいは移動まで厳しく制限するような法律を制定したのです。更に1936年には、「原住民代表法」という普通選挙人名簿から黒人有権者を除外するという法律まで制定することで、人種主義的な白人優遇策をより一層推し進める形で対抗していったのです。1949年国民党が政権を握ると、その勢いは衰えるどころか人種間の恋愛禁止や公共施設の使用分離等で人種隔離政策はますます加速されていきました。そんな中ANCではマンデラといった若手が台頭し、アパルトヘイト反対運動を更に強めていったのです。1955年にはのちの民主化につながる自由憲章がアパルトヘイトに反対する全人種団体で採択されたにもかかわらず、当時の政府は徹底的な弾圧という形で対抗し、マンデラ含む幹部は逮捕・収監されてしまったのです。1960年には、「シャープビル虐殺事件」というヨハネスブルグ郊外のシャープビルでデモを行っていた群衆に対し警官隊が一斉射撃し69人が死亡、180人以上の負傷者を出すという事件へとつながってしまったのです。中心人物のスティーブ・ビコは逮捕、獄死し、南アフリカはますます国際社会から孤立していくことになっていったのです。そのような中で更に激化していく反対運動に国際社会からの経済制裁も加わり、1989年病で倒れたボーダ氏の後任として就任したデ・クラーク大統領は政治犯の釈放やアパルトヘイト関連法の廃止を実施していきました。1991年2月国会開会演説でデ・クラークはアパルトヘイト全廃を宣言。南アフリカ会議がひらかれ、アパルトヘイト後の政治のあり方や移行プロセスをめぐる交渉を開始するとともに、投獄されていたマンデラを釈放したのです。更に1994年には全人種参加の選挙が行われるに至り、マンデラが同国初の黒人大統領として就任し、南アフリカの異人種間の連帯が強まっていく足がかりとしていったのです。